筋の通った和のこころ

世の中にはいろいろアレッな人がいる。それが、今はあまりにもいろいろすぎる。かつてはれっきとした社会人でさえも様々で、その言動にアレッ?なのだ。筋が通らない。
戦後民主主義で育ってきたから、何でも民主的にというのが、何かをする場合の大きな枠だ。でも、この民主的と言う言葉が、あやしい。歴史のない民主的なのだ。


れっきとした社会人だった人の言動から、茶道でお茶を飲む順番が来たときに右と左の人に一礼することを思い出した。これは、ただの礼、様式になっているが、中味がちゃんとある。筋が通っている。
茶道はそんなめんどうな、うるさい作法ばかりで、と私達の年代くらいから嫌われるようになる。アメリカ人のガムをクチャクチャ噛む(明治生まれの祖母は品格がないと嫌っていた)というような文化が入って来た頃だ。民主的もその頃だ。


茶道のその一礼に、隣の人へのお先にいただきます、もう一服いかがですか、の意味があり、これは簡素化された相手への思いやりだ。
そういうことが日本的には暗黙の了解で、茶道に限らずあったのだろう。その枠が今はない。


相手への思いやりと言ったって、それは他人のことを気にしすぎていることだし、あなただってずけずけ言うし相手のこと思ってないじゃない、と言われればあとがない。
議論はいくらしてもいい。でも、日本人は議論と礼儀のところが、ごちゃごちゃになっていて、あげ足取りになっている。


そして、何でも民主的と言いながらも土足で入りこむことも多いのではないか。土足と言えば、欧米は靴をぬがない生活なので、土足で入り込むは普通のことなのだ。
そんな違いを思うと、民主的のとらえ方も違うような気がする。


何はともあれ、昔からの礼儀、思いやりが、めんどくさいと言われる枠なのだ。思いやりも分析されすぎて、変な方向に。


欧米文化に接することができて60年、和文化が失われずに融合するにはあと40年はかかるかも。
現状では子ども達に何と言ったらいいのだろうか。