87歳老女の話から

文化財長屋門

大正7年生まれ。広島県廿日市市在住。日本三景宮島も廿日市市という広域自治体になったが、ほんの18年前は、佐伯郡廿日市町。彼女の子どもの頃(昭和の始め?)はまだ町でもなかったが、その思い出笑い小話から。


その頃お寺の使い走りで、みんなが文やんと呼んでいた人がいた。今なら知的障害者とされる人だ。その文やんにお寺の和尚さんが「明日津田八田へ行ってくれえや」と頼んでいたところ、翌日「行ってきました」と文やんがお寺に来て、和尚さんは唖然としたという話。
津田八田というのは、隣町佐伯町津田の八田家のことで、大地主である。廿日市町からそこまでは山越えで片道徒歩2時間はかかる。往復4時間の距離をその頃の人はスタスタと歩いていたのだ。文やんが知的障害者ということで、笑い話になっているので、今なら何か言われそうだが、町の人は皆文やんのことは知っていて、彼には役割があった。


この話は、廿日市の歴史も物語る。何故文やんが八田家に使いに行くことになったのか、というと八田家がある地域が大昔は行政の中心地だったらしい。港がある廿日市町が中心になって来てもなお、その由緒ある八田家の存在は大きかった。文やんが歩いたその山越えの道も最短距離を昔の人は作っている。
だが、今やその山も廿日市町も必要かどうかわからない道路作りで、見る影もなくなっている。


銭形平次を見ていると、「おい、八。ちょっくら所沢まで行ってきてくんな」と言っていた。江戸八丁堀から所沢は多分この文やんが頼まれた距離くらいはあって、山越えだったのだろうな。大正生まれの老女の話から時代劇がちょっとリアルになった。