毎日の時間の続き

友達Mの事故の原因は何か?
直接の原因は彼女が急いでいたために右折したことだ。
彼女の忙しくなった日常と関係はないのか?
そう思うのは仏教的なのか?


「仏教ではあらゆる存在は原因があって結果があるという因果律が基本。自己の苦しみを解体するために、どこまでも現在に立脚して、過去の遡及をする。「この苦しみはどこにあるのか」という分析的手法。結果をもとに原因を抽出する。結果は原因を創りだす。現在の結果は未来の原因でもある。原因と結果は相即である。これは心の問題として説かれている。


ユダヤ教思想のレヴィナスは原因があって結果があるものではなく、人間の成熟と倫理性の基礎づけという「目的」のために、それを動機づける「過去」が事後的に挿入される、という時間の順逆を転倒させる考え方を説いている。そして、あるゆる行動は暴力的とも。」(「いきなりはじめる浄土真宗」より)


どちらもわかったようでわからない。どちらにも共通する起こりうる結果を想定する考え方には意外に見えない真実があるのではないか。
私はもし、事故が高速で起こったら?という結果を想定し、最近の彼女の行動は事故とつながっていると思った。起こりうることだ。


でも、人はそれがわかっていても、日常の行動パターンは変えられない。心の中で少しの戒めを思うかもしれないし、思わないかもしれない。
私がMにその仕事をやめたら?と言うのは暴力的だし、選ぶのはMだ。


1年振りに電話がかかってきた友達Hが、くも膜下出血で倒れていた、と聞きびっくりした。彼女はそのリハビリをするのが仕事で、一生懸命時間を惜しまずやりこなす人だ。元気になると、またついつい無理をしてしまうかもしれない。それもまた、彼女が選ぶことだ。


誰もが気持を、行動を自分で選び毎日を過ごしている。